組み込みは面白い “教育を変えれば状況は変わる”組み込み業界今昔モノがたり(3)(1/2 ページ)

「モノ作りは人作り」「ソフトは人なり」。ベテランエンジニアが伝えるそのメッセージとは? 組み込み業界の魅力を再認識する

» 2007年10月03日 00時00分 公開
[吉田育代,@IT MONOist]

 第3弾の今回は、現状を嘆くばかりではなく“どうすれば現状を打開できるのか”を考える。

 中根さんの話を聞いてみると、大事なのは「エンジニア自身が自分をどのように成長させるのかを考えること」。そして、組織が「組み込み業界の仕事の醍醐味(だいごみ)を伝えること、エンジニア教育、人材育成の在り方を根本から見直すこと」のようだ。

モノ作りは人作り、ソフトは人なり

 実は、中根さんが独立してコンサルタントになったのは、愛してやまない組み込み業界をなんとか良い方向に変えていきたいという思いからだった。

 組織というのは不思議なところで、“「何かがおかしい」という指摘がどこから来るかで対応が変わる”。例えば、課長が部長に“○○がおかしい”と一生懸命訴えても、部長はなかなか耳を傾けられない。組織内の特異な“常識”や“上下関係”が災いして、部長は部下の言葉を素直に受け取れないことが多い。

 しかし、“おかしい”という言葉を外部の人間が呈すれば、部長の気持ちにも揺らぎが起こる。世間と自分たちの間に違いがあることをそこで初めて気が付けるからだ。それに気付いた中根さんは、ものいう外部になるためにあえて会社を飛び出したという。

フリー・アーキテクト 中根隆康氏 フリー・アーキテクト 中根隆康氏は、ネクスト・ディメンションの取締役社長でもある

 彼の活動の根底に流れるメッセージは、“モノ作りは人作り”、そして“ソフトは人なり”だ。

 成果物である最終製品も、その中で稼働する組み込みソフトウェアも、突き詰めれば人が作っているモノ。人の品質が良くなければ、モノの品質は良くならない。『人を育てるという観点なくして、良いモノ、優れたモノを生み出すことはできない』という思いが中根さんの中には強くある。

 また、中根さんは「組み込みソフトウェアは人のためにある」という。組み込みソフトウェアは、「ハードウェアを動かすためのもの」「ハードウェアを制御するためのもの」と思ってはいないだろうか。局所的な見方では間違いではない。しかし、最終的には「人を便利にするため」「人を楽しませるため」「人を守るため」のものなのだ。これは決して大げさな表現ではない。例えば、身近な組み込み製品を考えてほしい。携帯電話でいつでもどこでも電話やメールができる、テレビで番組表を取得したり番組情報を表示したりできる、いまや当たり前のように使っている便利なモノがわれわれの生活の中にあり、それに頼りきっている。日常生活で意識しなくとも、これらの製品はまさに組み込み技術の結晶であり、その中には紛れもなく“組み込みソフトウェアが存在している”のだ。つまり、「人のために組み込みソフトウェアが存在する」といっても過言ではないのだ。

現状を打開するためには

 では、具体的にどうしたら現状を打開できるのか。彼には、技術者個人と組織へ向けた2つのアドバイスがある。

技術者個人として取り組むべきこと

 「知識と経験の幅をできるだけ広く持つこと」と、中根さんは技術者個人へアドバイスする。

 組み込み業界では、開発する製品の高機能化、複雑化により、技術者の専門分化が進んでいる。下手をするとある製品の一部分のそのまた一部分にしかかかわれないということもある。組織としてはそれはそれで仕方がないのだが、個人の成長を考えるとそれを是としていては成長できない。それゆえ、割り当てられた業務とは別に、なるべく“全体を理解するように努める”が重要だ。全体とは、言い換えると広さと深さだ。

 「広さ」で中根さんが例として挙げたのは、“ソフトウェア技術者がハードウェア設計を理解する”ということだった。ハードウェア技術者が作成した機能ブロック図や回路図をある程度読めるようになって、「これだったら大丈夫」「ここをこうしてくれないとソフトウェアは動かない」などと、ハードウェア技術者と意見を戦わせるようになってほしい、という。

 「泣かされるのはいつも後工程のソフトウェア」といった愚痴をこぼす前に、本来はパートナーとなるべきハードウェア技術者の仕事を理解して、巧みに交渉するすべを身に付けるということだ。それは、仕事のしやすい環境を自ら作り出すことでもある。

 「深さ」という観点では、“基礎からきちんと技術と知識を積み上げていく”ことが重要だという。最近は何でも便利になって、プログラミングにおいてもライブラリやサンプルコードが豊富にあって簡単に手に入る。時間を稼ぐ意味もあって、ソフトウェア技術者の中には中身をきちんと理解せず、それらを適当につまんで、1つのプログラムに仕立ててしまうケースがあるという。しかし、思ったようにうまく動かないため途方に暮れてしまい、結局助けを求めることになってしまうのだ。

 ライブラリやサンプルコードは実証済みのプログラムで、それを使うこと自体には何の問題はない。しかし、それらを組み合わせて使うとなると、それはまったく前例のないモノとなってしまう。

フリー・アーキテクト 中根隆康氏

 ソフトウェア技術者が手を動かすことを億劫(おっくう)がるようになっては世も末というもの、全体を把握するためにも、あえて便利なツールに頼ることなく自分の手ですべてのプログラムを組むように心掛けるのも一法だそうだ。それが思考の訓練にもなるからである。自分ですべてプログラミングするとなれば、嫌でも考えざるを得ない。アイデアというものはその“考える”ことから生まれてくるのである。「便利なモノに囲まれ過ぎると、人間は思考停止に陥ってしまう」と中根さんは警鐘を鳴らす。

 確かにそうだ。卑近(ひきん)な例で恐縮だが、交通手段を使うとき、私はいつも携帯電話でルート検索をする。あるとき、事情があって時刻表を使わなければならなかったのだが、冊子を前に呆然としてしまった。使い方をまったく忘れてしまっているのである。少し繰ってみたが、とうとう目的の列車を調べることができなかった。頭が退化したと思い、しばらく憂うつだった。「このままでは良くない」と思いつつも、いまでも携帯電話のルート検索に依存し切っている……。

 このようなケースでは、私個人がぼけるだけだから問題でも何でもないが、モノ作りの現場全体がそうなってしまっては大変だ。あえて高い目標を掲げ、知識と経験の幅を広く持つことで、木を見て、森を見て、桃源郷を思い付くことのできるソフトウェア技術者を目指してほしいものである。

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