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» 2014年12月08日 10時00分 UPDATE

鳥人間コンテスト インタビュー:被災地の思いを乗せて飛ばなきゃ――鳥人間王者・Windnautsの秘密(後編) (1/2)

琵琶湖の夏の風物詩として知られる鳥人間コンテストに、東北大震災で被災しながらも出場して、優勝を成し遂げた東北大学の「Windnauts」。人力飛行機の設計内容を説明した前編に続き、後編では震災当日から鳥人間コンテストに出場するまでのいきさつや、優勝、そして連覇を果たしたWindnautsの活躍について紹介しよう。

[加藤まどみ,MONOist]

>>前編

震災の中での出場

 日頃からハードなスケジュールをこなしてきた彼らだが、東日本大震災のあった2011年は特に大変な年となった。大地震が起きた2011年3月11日は、本来なら荷重試験の日だった。だが機体の完成が予定より早かったため荷重試験は終了しており、当日は2次構造物などの製作や取り付けに入っていた。大きな揺れが襲う中、機体を守り、損傷はほとんどなく、メンバーも全員無事だったという。荷重試験は機体を高くつり下げて重りをぶら下げたりするため、その中で地震が起こればどんな危険があったか分からない。

 だがその後はガス、水道、電気が止まり食料もなく、メンバーは実家に戻るなどして活動停止状態に陥った。1カ月後には仙台市内はインフラが復旧して生活できる状態になったため、ほそぼそと活動を再開した。メンバーの半数が仙台市のボランティアに登録し、同年5月に授業が再開されるまでは、昼はボランティア、夜は機体作業という生活を送ったという。4月に作業時間がそれなりに取れたものの、スケジュールの遅れは取り戻せず、最低限のテスト回数での出場となった。

 白畑太樹さん(現・現在東北大学大学院工学研究科所属)らは、大会に出てよいか、最初は悩んだという。だが部員も機体も無事だった。これで出ないわけにはいかないというのがメンバー共通の思いだった。「多くの人が被害に遭いましたが、東北のチームとして戦う姿を見せることでその人たちを勇気づけよう、僕らができることは唯一それだけという思いがありました」(白畑さん)。特にパイロットの中村琢磨さんは気合が入っていた。普段から熱いタイプだったが、メッセージをもらったり取材を受けたりするたびに、さらにスイッチが入ったという。

yk_Windnauts20142_134.jpg 背中には闘北の文字が

当日のフライトは大荒れ

 こうしてギリギリのスケジュールをこなしながら当日のフライトを迎えることになった。フライトの順番は11機中8番目。問題なく飛び立ったものの途中でトラブルが発生する。無線とGPSの不具合が重なり、方向が分からなくなってしまったのだ。その結果、旋回して大きく1周してしまうことになり、飛距離を大幅にロスする。だが無線の回復後、機首を立て直し、最終的に直線距離18.687kmの記録で優勝する。

 実はフライト中、2回ほど後輪が着水していたという。そこから持ち上がったのはパイロット本人の根性だろうと白畑さんは言う。しかも中盤には既に両足をつった状態だった。最後の方はほとんど記憶のないまま飛び続けていたという。飛行時間は約1時間半、総飛行距離は約35kmにも及んでいた。

yk_Windnauts20142_282.jpg 2011年機体のコックピット内には「ゴールまでサポートします帰ってきて下さい!」の文字が
yk_Windnauts20142_139.jpg 2011年度の機体「Riih」

 さらに翌年にも優勝し連覇を成し遂げた。「実は連覇はかなり難しい」と小田信太郎さんは言う。それは前年の優勝機は飛行順が最後になってしまうからだ。ディスタンス部門の開始は6時で、朝のうちはほとんど風がない。だがラストの昼頃になると、秒速3mほどの向かい風になることが多い。それに加えてハンデになるのが気温の上昇だ。発泡スチロールに囲まれている状態のパイロットには、高温は大きな負担になる。だが「その中で勝つことによってチームの強さを証明できると思った」(小田さん)。結果、飛距離14.129km、飛行時間51分で優勝。その思いは見事に達成されることになった。

yk_Windnauts20142_004.jpg
yk_Windnauts20142_051.jpg 2012年度の機体「翠」
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