機械の稼働率より人の作業の効率化、優秀な人材は国外からもどんどん呼べイノベーションで戦う中小製造業の舞台裏(13)(2/3 ページ)

» 2017年05月30日 14時00分 公開
[松永弥生MONOist]

「松本流営業」で、常に新しいマーケットに挑戦

 三共製作所の創業者は、松本氏の祖父。創業した1929年は、今は会長職に就いている父(以下、松本会長)が生まれた1年前だった。当時、知り合いから「給湯器の部品を作ってほしい」と依頼があり、海外製品を参考にして製造したのが国産給湯器第1号になったという。

東大阪にある三共製作所。給湯器部品メーカーとして創業し、現在はさまざまな産業分野に金属部品を提供している

 松本会長が中学を卒業したころに終戦を迎えた。会長は、親戚の鉄工所を手伝ったり、パン焼き機やパイプ椅子製造機を作ったり、機会があればどんなことにもチャレンジする精神を持っていたそうだ。

 「スポーツメーカーの依頼で、バット成型機も作ったそうです。これも日本初でしょう」と松本氏は言う。

 設備関係の仕事は、需要の波が大きい。うまくやれば利益は大きいが、リスクも高い。1年2年と仕事がないこともある。そして“日本初"の案件はチャレンジのしがいはあるが、技術的にクリアできなければ大損害を受ける。

 そこで松本会長は、安定経営のために量産路線に切り替えた。高度成長期の波にのり給湯器の需要が高まってきたころのことだ。

 1964年(昭和39年)頃、給湯器は理髪店にはあったが、一般家庭にはまだ普及していなかった。そこで、大阪ガスが「アロハサンタセール」というキャンペーンを展開。「夏場に給湯器を取り付けて、代金は分割で冬から支払い開始」という当時としては画期的なマーケティングだった。これが大当たりし、給湯器が爆発的に売れた。系列が強固にできた業界のため、他社の参入もない。給湯器に専念しているだけで、同社は右肩上がりで業績を伸ばした。

 松本氏が入社した1979年(昭和54年)ごろも、そうした状況が続いていた。ところがその後、業界内でメーカーの合併が繰り返され状況が変化した。「毎年30%売り上げを落とします、とメーカーから宣言されました」(松本氏)。

 この時が、「三共製作所が生き残るかどうかの瀬戸際だった」と、松本氏は振り返る。最終的に仕事はほぼゼロになるだろうと予測した松本氏は、自ら営業に出た。それまでは固定客への営業はしていたが、新規顧客を得るための営業は同社では経験がなかった。新規営業をしなくても、仕事が途切れることはなかったから当然だ。

 営業といっても、業界内では動きにくい。全く違うところに飛び込んでいった。いろいろな会社に顔を出したという。ある会社には、週に2度も営業に出掛けていた。開発に提案をしたり、生産に手伝いを申し出たり、パートのおばちゃんたちに3時のおやつを届けたり……。そんなことをしているうちに、試作部門から仕事を受けるようになったという。

 「量産は納期が厳しくて、不良品を出せば怒られる。でも、試作はライバルがいないし、感謝されるし、もうかるし。いい仕事でした」と松本氏は笑う。

 営業の面白さを知った松本氏は、自分のやり方が他でも通じるのか知りたくて、東京にも赴いた。関西と関東では商習慣はもちろん、言葉も少し違う。自動車に搭載するエアコン部品を作っているメーカーには3年ほど通ったという。

 あるとき、そこの常務から「チャンスをあげる。来月イタリアに一緒に行こう」と声がかかった。「イタリアで製造しているものと同じものを作ってほしい」と言われ、カーエアコンの部品製造を三共製作所で手掛けるようになった。

 「製造業には口下手な方が多く、仕事がないとボヤキながら営業をしない経営者が多いでしょう。営業をすれば、仕事は増えますよ」と松本氏は言う。

 口下手だから仕方がないと諦めるのではなく、鍛えればいい。「“モノ言う製造業"でなくては、これから生き残れません!」と松本氏は断言する。

 だからといって「売り込み」に必死になるのとも違う。「営業は、モノを売りに行き買ってもらう仕事ではありません。売れなくても人として付き合う。信頼を積み重ねていけば、先方が必要となった時には、買ってもらえる。それが、私の営業術です」と松本氏は言う。

 「30年通っていて、まだ1回も買ってもらったことのない会社さんもありますよ」と笑いながらいう。当時から交流のある方々は、皆、重役になった。松本氏が気軽に重役室に出入りするのを、若い社員は不思議そうに見ているそうだ。

新規営業で取引先を自動車、航空機、燃料電池などの業種に広げた。

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