すし屋を諦め転職を繰り返した若者はなぜ自動車の生産技術者になれたのかそして少年は自動車エンジニアになった(立志編)(1/3 ページ)

自動車メーカーに勤める現役の自動車エンジニアが自身の人生を振り返る。「定職にも就かずフラフラとしていた人間」が、業界内で認められるような自動車エンジニアになれたのはなぜなのか。3回に分けて波乱万丈の人生をお送りする。第1回は立志編だ。

» 2015年12月03日 10時00分 公開
[越光人生MONOist]

まえがき

 この物語は、全て実話に基づいています。

 実話だけに、企業名や人物名などの固有名詞をそのまま使用すると、もろもろとマズイことになってしまうとのご指摘があり、登場する人物名や企業名などは全て架空の固有名詞を設定させていただきましたことをあらかじめご案内させていただきます。ご了承ください。

 執筆にあたり、結婚前は定職にも就かずフラフラとしていた人間であっても、一念奮起し最後の最後まで努力することを諦めなければ人生は変えられる。このことを実証する私の実体験が、行き詰まり感や悲壮感に苛まれ、一歩を踏み出すことにすら躊躇(ちゅうちょ)されておられるような方の何かの参考にでもなればと思い筆を取りました。

 「今からでも人生をやり直せるだろうか……」「頑張れば変われるかな?」などと考え、悩んでおられるような方の一助になれば幸いにございます。

これまでの人生を思い起こす越光であった

誕生

 私はトキヲタ自動車株式会社に勤務する越光人生。49歳。

 定年まで、あと11年を残すサラリーマンです。

 私は1965年12月25日の夜中に、山口県山口市で生を受けました。

 この日は、世間一般ではクリスマスと呼ぶ、キリスト様がお生まれになられためでたい日であります。しかし、友人たちが誕生日とクリスマスのプレゼントを別々にもらっては私に自慢話をする中で、私は誕生日とクリスマスのプレゼントがまとめて1つだけだったので、物心がついた幼少の頃から自分の生い立ちに不公平感を持っておりました。

 その物心がついた間もないころ、小学生に上がる前に両親が離婚し、兄と祖母の三人暮らしが始まりました。この祖母に、やりたいことを最後までやり抜く心意気と段取りと人脈構築の大切さを教わりました。

 今から思えば、祖母は小料理屋の女将(おかみ)をしていましたので、幼くして親を失った私の行く末を案じての思いやりだったのだと思いますし、自らの経験に即した信念であったのだと思います。祖母からの教えは、現在携わっている業務を遂行する上でも重要な基本理念として活用させていただいています。

自立

 高校時代のアルバイト先から紹介していただいたすし屋が、私の最初の就職先でした。

 これも今から思えば、小料理屋の女将をしていました祖母の影響かも知れません。

 「筋が良い。20代で店を持たせてやる」などと大将におだてられながら下積み生活を送っておりました。しかし1年もすぎないうちに、甘海老や赤貝の体液が肌に合わず、両手の指先から手首まで全体がひどいあかぎれになりました。水に手を浸すだけで激しい激痛が走り、しまいには包丁も握れなくなって仕事ができなくなってしまいました。

 仕事もできない状態で店に残る訳にはいかず、苦渋の決断により、20代で店を持つ夢を諦めすし屋を退職しました。人生で初めての挫折です。18歳にして露頭に迷うことになりました。

 転落人生の始まりです。

 その後、クリーニング屋の営業や土木建築関係など、職を転々としました。19歳になるまで、10回ほど就職と退職を繰返しました。

 辞めるキッカケは決まって「自分がやりたいことは、これじゃない」というわがままでした。

 そのようなことを繰返して19歳も終わるころ、高校時代からお付き合いさせていただいている方との結婚の話を具体化しなければならない事態となりました。

 子どもを授かったのです。

 しかし先方のご両親は、安定した職についていない私とかわいい一人娘の結婚に難色を示していました。

 当然の話です。

 この事態を打開するため、自分のわがままよりも家族との生活を優先することを決断しました。職業安定所に通い、職員さんに事情を説明して紹介していただいたのが、トキヲタ自動車株式会社の期間社員です。正社員への登用制度もあるので、頑張れば安定した家族との生活が得られると薦められました。

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