AUTOSAR導入でマネジメント層が果たすべき役割AUTOSAR〜はじめの一歩、そしてその未来(8)(1/3 ページ)

「量産開発を通じてのAUTOSAR導入」の2つ目の側面である「AUTOSAR導入により、基本的な型や支援体制をどのように変えていくかの見極めと必要な活動の実施」では、現場担当者の上司であるマネジメント層の果たす役割は極めて大きい。マネジメント層が壁になるのか、支えるのかによって状況は大きく変わるからだ。

» 2016年06月02日 10時00分 公開

はじめに

 2015年7月に開始した本連載は、この第8回と第9回で一区切りとしたい。以降では、「量産開発を通じてのAUTOSAR導入」の2つ目の側面である「AUTOSAR導入により、基本的な型や支援体制をどのように変えていくかの見極めと必要な活動の実施」に関して、特に、マネジメントが果たすべき役割について、僭越(せんえつ)ながら私見を述べさせていただきたい。

国内におけるAUTOSARの導入や活用は成功しているのか

 確かに、機能/性能やリソース要求などに対する不満、導入におけるさまざまな壁(初期投資の費用の大きさや、大量の英語のドキュメントなど)、すぐに効果が出せないことに対する理解の得にくさ、インテグレーション作業の複雑さなど、いくらでも困難や課題を挙げることはできる。

 それらの障壁が存在することで、うまく行っていない、あるいは、うまくいきそうにもないようにも見えてしまうかもしれない。

 しかし、それらの障壁の前で立ち止まるのではなく、乗り越えられることができたとしたら、成功に近づくことができるはずだ。

 そして、今の時点では立ち止まっていたとしても、時間が解決してくれるものもあるかもしれないし、また、担当者レベルでは永久に無理でもマネジメント層や経営トップの支援があれば乗り越えられるものもあるだろう。

無意識に、準備せずに重要な判断を下していないか〜「頑張る」を例にとって

 では、成功のために、乗り越えることができるか否かは、何によって決まるだろうか。

 もちろん、AUTOSAR導入検討を行う担当者が頑張って乗り越える、というのは1つの手である(「頑張る」という泥臭いやり方の好き嫌いについてはこの際おいておく)。しかし、その上の立場の方(主にマネジメント層や古株の方々)が「その障壁はクリティカルであり、許容できない。だからAUTOSARはダメだ」という見解を一言発してしまえば、以降、その見解はその組織において固着観念と化してしまうかもしれない。そうなれば、導入担当者は、それ以降、同種の障壁を乗り越えようとはしなくなるだろう。権威勾配(上に対する服従の度合い)が大きな組織ではなおのことだ。

 実際、「Osにより処理オーバーヘッドが増大する」と報告したことで、「そうか、それならAUTOSAR(あるいは、Osの利用を前提とするRTE)はダメだな」と上司から言われたのでAUTOSAR(あるいはRTE)の導入を諦めた、という事例をお聞きすることはいまだに多い。同じ経験をお持ちの方は少なくないはずだ。

 確かに、現状と比較して一切の欠点がないというのは理想的だが、現実には夢物語である。だから、担当者もマネジメント層もトレードオフ判断で悩まなければならないのだ。本連載第6回では「期待」を明文化することが重要だと述べ、それを考える上でのヒント(AUTOSAR導入に付いて回るさまざまな側面の例)を示したが、その検討においては、トレードオフ判断が待っている(図1)。

図1 図1 AUTOSAR導入の背後に潜むさまざまな側面(クリックで拡大)

 そこで仮に、導入担当者が「AUTOSARがダメだと判断するのはまだ早い」と食い下がったとしても、上司が「決定だ」と突っぱねたら、導入担当者は諦めざるを得ないだろう。心理学は筆者の専門ではないが、防衛機制が働くためか、そのようないきさつを経た後に、自分が諦めた内容と同じ主張をする人に対して同じ諦めを(時にはヒステリックに、あるいは逆に完全に無視することで)押し付ける、一種の「諦めの拡大再生産」ともいうべき事例もちらほらと目にしている。時間が解決してくれるものであったとしても、そのようにして乗り越えられるものだと気付くことができなくなっているように見える場合もある。まるで学習性無力感である。

図2 図2 判断の前に判断すべきこと(クリックで拡大)

 賢明なる上の立場の方々には、ぜひ、判断や見解、助言を求められた場面においては、「判断(およびその結果としても見解・助言)をしてしまって良いのだろうか」と自問していただきたい。確かに、判断を行い、それに対する責任を取ることはマネジメント層の役割であるし、助言をすることは先輩格の方々の役割だ。しかし、たとえ「AUTOSARはダメか否か」と判断や見解を求められたとしても、その前に、「そもそも、自分はその判断をできる状況にあるだろうか」と疑うことも必要である(図2)。

 制御においては、自己診断や入力値の妥当性確認をしてから処理結果を出力するのが基本であるが、これと同じである。筆者同僚の代氏の言葉を借りるならば、「プラントモデリングは現実世界を理解すること、制御は人生そのもの」である。自らの価値判断基準や、判断に必要な情報がそろっているかなどが、疑うべき対象の典型例であろう。状況が整うまでは、あえて評価/判断や結論を急がない(そして、周囲に急がせない)ということは重要である。

 また、可能であれば、「諦めの拡大再生産」が起きていないかと振り返っていただき、その連鎖を断ち切るためにも何らかの手だてをお願いしたい※1)

注釈

※1)現在、工学部や高専の専攻科では技術者倫理の講義が必修となっているところが少なくない。しかし、ある程度の世代以上では、そもそもその講義が設定すらされていなかった。当然、世代間に「価値観や物事の見方・考え方」に関するギャップが生じ得る。技術者倫理の観点で若手が発言したときに、上が抑圧するという構図は、自分自身も幾度となく経験している。そのような場面は「諦めの拡大再生産」の起点ともなりうるのではないだろうか。

 企業内で「共通の価値観」が出来上がっているとしても、社会が企業に対して求めるものも変化していく。それを把握し続けることも、技術者倫理の観点では技術者の義務とされている。「これまではこうだったからそれで良いのだ、黙って従え」ということではなく、若手であれ対等に議論/対話ができるような風土の有無は、AUTOSAR導入だけではなく、安全やセキュリティなど、さまざまな場面に影響してくるだろう。自然任せではなく、マネジメント層や経営トップが積極的に介入/ドライブしていく必要があると思うが、いかがだろうか。


       1|2|3 次のページへ

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.